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ハーレー・ダビッドソン、110年の歴史。小さな小屋から始まった歴史 アメリカを代表するモーターサイクルカンパニーのハーレー・ダビッドソン社(以下H・D)は、ミシガン湖に程近い中東部の都市ウィスコンシン州ミルウォーキーで産声を上げた。1903年、同市の小さな納屋で一台のモーターサイクルが生み出された。設計はウィリアム・S・ハーレー、製作・組み立てはアーサー、ウォルター、ウィリアムのダビッドソン兄弟。この4人の青年によって火が入った空冷単気筒モデルこそ、記念すべきH・Dの第1号車であった。 アメリカを代表するブランドへ 第一次大戦後、H・Dはクランク軸を横置きしたフラットツインJDを発表、レースの世界でも活躍した。もちろんVツインエンジンも絶えず作られており、こちらもレースで華々しい活躍を見せた。この時期、すでにアメリカでは現在のAMA(American Motorcyclist Association)の前身に当たるFMAやM&ATAといった二輪業界団体が存在しており、レースの統括を行なっていた。1924年にAMAが誕生すると、アメリカ各地でも盛んにレースが行われるようになる。そのレギュレーションにあわせるため、H・Dは1929年にVツイン・サイドバルブの750ccエンジンを開発、それまでのフラッグシップだった1200cc・オポーズドバルブの車両もサイドバルブ化される。しかし、英国を筆頭とする欧州車では高性能の代名詞としてOHV(オーバーヘッドバルブ)の採用が当たり前になっていた時代である。部品点数の少な いサイドバルブには信頼性とコストダウンのメリットはあったものの、更なる高性能を求めるならOHV化は必至だった。H・DもワークスレーサーではOHVを投入していたが、それを市販レベルに落とし込むには至っておらず、VツインのOHVエンジン、ナックルヘッドの登場は1936年まで待たねばならなかった。 l 日本上陸から2013年で100年 l 2013年はハーレー・ダビッドソン110周年というメモリアルイヤーであるが、日本とH・Dの関係を見ても、実は記念すべき年である。文明開化に沸いた明治時代が終り、日本も欧米列強に追いつけ追い越せの勢いで富国強兵の道を突き進んでいた大正2年(1913年)、日本に初めてハーレー・ダビッドソンが輸入されたのだ。まだ技術的に欧米のような二輪車を作ることができなかったため、自動車や二輪車は輸入に頼っていたが、こうした車両を研究して、国産車を作る動きが少しずつ出てきた時代である。 |
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